芳賀 栄次郎(はが えいじろう、1864年9月15日(元治元年8月15日) - 1953年(昭和28年)2月27日)は、日本の陸軍軍医。最終階級は軍医総監。レントゲン技術の日本への導入に貢献したほか、軍陣医学の発展に寄与した。

生涯

幕末の会津若松城下で、会津藩藩士の芳賀家に生まれる。戊辰戦争の敗戦により一家は離散したが、兄の直政は弁護士となり、姉(又は妹)は旧会津藩士で検事となった小原朝忠に嫁ぎ、小原夫妻の養子が小原直である。

帝国大学を最優等で卒業。大学院で外科を専攻し、スクリバに師事する。在学中に郷里で発生した磐梯山噴火の際は、三輪徳寛とともに現地で負傷者の救護にあたった。大学院を卒業し、『特発脱疽ニ就テ』で医学博士号を授与される。

陸軍二等軍医時代に歩兵第23連隊に勤務していた芳賀は、旧薩摩藩藩士で上司の第6師団長、野崎貞澄の娘と結婚した。芳賀は九男二女に恵まれ、男子は医師、検事、砲兵将校、騎兵将校、陸軍軍医、歯科医となり、長女は永持源次に嫁ぐ。五男の芳賀信政は戦死した陸軍大佐である。

日清戦争では銃創の研究を行い『日清之役第三師団ニ於ケル銃創治験』と題して発表。この論文は日本のみならず、ドイツでも発表され高い評価を得た。1896年(明治29年)ドイツに留学し、レントゲン資料を私費で購入。日本へのレントゲン技術の端緒をなす。帰国の際はシベリアを単騎横断した。日露戦争では第五師団、近衛師団および第一師団の各軍医部長として従軍し、赤痢に感染した皇族軍人の主治医を務める。

陸軍軍医学校校長、朝鮮総督府医院長を歴任し、1915年(大正4年)2月、軍医総監に昇進した。京城医学専門学校長を務めて1921年(大正10年)1月、予備役編入となる。1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた。

なお、芳賀は郷党の育成組織稚松会の評議員を務め、また日本外科学会発起人の一人である。

赤十字病院長を巡って

明治の末年、当時の陸軍次官石本新六は芳賀を赤十字病院長に推したが、医務局長の森林太郎が激しく抵抗する。森は山縣有朋に働きかけ、さらに桂太郎にも工作する。こうした動きを知った芳賀は文書で森に反撃するが、陸軍大臣寺内正毅は森を支持し、平井政遒が病院長に就任した。この出来事には軍医の人事権を医務局長が保持する背景があった。なお石本は准長州派と言われていた人物である。

レントゲン機器購入

レントゲン機器の日本への導入経緯について、『陸軍軍医学校五十年史』には以下のように記述されている(仮名を平仮名に改めた)。この出来事は1898年(明治31年)のことであった。

栄典

位階
  • 1910年(明治43年)5月21日 - 正五位
  • 1915年(大正4年)3月10日 - 従四位
勲章等
  • 1915年(大正4年)
    • 8月28日 - 勲二等瑞宝章
    • 11月10日 - 大礼記念章
  • 1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章

著書

  • 『銃創論講義』
  • 『外科通論 上編・中編』
  • 『外科通論 下編』
  • 『臨床排泄物検査新論 三本松清吉編、芳賀栄次郎、長尾美知校補』

出典

参考文献

  • アジア歴史資料センター
  1. 『芳賀軍医結婚願いの件』(ref:C07070686900)
  2. 『レントゲン写真五点献納の件』(ref:C06082948600)
  3. 『故陸軍大佐芳賀信政外四名位階追陞の件/故海軍大佐檜野武良(ref:A12090491800)
  4. 泉孝英編『日本近現代医学人名事典』医学書院、2012年
  • 片岡義雄『陸軍軍医中将 芳賀栄次郎博士に関する研究』防衛衛生 第34巻第7号、1987年
  • 『昭和人名辞典』(第1巻)日本図書センター
  • 『日本人名大辞典』講談社
  • 小堀桂一郎『森鴎外 日本はまだ普請中だ』ミネルヴァ書房、2013年
  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』東京大学出版会
  • 福川秀樹『日本陸海軍人名辞典』芙蓉書房出版
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年
  • 陸軍軍医学校編『陸軍軍医学校五十年史』、1936年
  • 小原直『小原直回顧録』中公文庫、1986年。
  • 帝国秘密探偵社『大衆人事録 東京編』(第13版)

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所蔵史料データベース詳細 日本赤十字看護大学史料室

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