第1軍(だい1ぐん、ロシア語: 1-я армия)は、ロシア内戦中の1918年から1921年にかけて、赤軍に二度形成されていた編制。

初代第1軍

1918年3月17日、エカテリノスラフにおいて開催された第2回全ウクライナ・ソビエト大会 (ru) 中の「軍事組織について」の決議に基づき、同月上旬に「第1革命軍」(1-я революционная армия) として、オーストリア=ハンガリー帝国軍やドイツ帝国軍の介入に対処するためにビルズラ一帯で設立された。軍にはアッケルマンやエリザヴェトグラードからの部隊も含まれ、その規模は4月には最大3万人にまで増強されたが、翌5月に第1軍は解散した。

戦歴としては、3月にオデッサ方面でドイツ軍と戦ったが、クレメンチューク、ズナメンカ、クリヴォイ・ローグへと退却した。その後ニーコポリ=アレクサンドロフスク線上で第2軍を援護し、エカテリノスラフを防衛した。4月にはヤシノヴァタヤ、ユゾフカ、マリウポリでも連合国の介入を退けたが、同月下旬にはデバリツェヴォ、ズヴェレヴォへと押され、さらにドイツ軍の攻勢によってタガンログ、ロストフ・ナ・ドヌへと退却を余儀なくされた。

初代第1軍の歴代司令官は、P・V・アセーエフ、S・L・エゴロフ、コジュラ、カルロフであった。

第2代第1軍

1918年6月19日付東部戦線指令に基づき、チェコ軍団および憲法制定議会議員委員会人民軍に対処するため、シズラニとシンビルスクで活動する部隊から編成された。当初は東部戦線(翌1919年4月11日からは同戦線南部グループ)の指揮下にあったが、1919年8月15日からはトルキスタン戦線の指揮下へと移された。サランスクを中心に活動していたが、その後1921年1月に第1軍は解散した。

戦歴

1918年にはヴォルガ一帯で白軍およびチェコ軍団と戦い、翌1919年まで東部戦線の諸攻勢に参加した。シンビルスク作戦およびシズラニ=サマーラ作戦 (ru) を主導してサマーラ(1918年9-10月)、ステルリタマク(12月)、オレンブルク(1919年1月)の諸都市を占領。1919年には白軍ロシア軍による春季攻勢からステルリタマクとオレンブルクを防衛し、4月から6月にかけては東部戦線による反攻 (ru) にも参加し、ブグルスラン作戦 (ru)、ベレベイ作戦 (ru) では南軍 (ru) のアレクサンドル・コルチャークとも戦った。

8月から9月にかけてはトルキスタン戦線の指揮下でコルチャーク軍とウラル軍の撃退に加わり、アクトベ作戦 (ru) 中の9月13日にはムガルジャル山でトルキスタン自治社会主義ソビエト共和国軍と合流した。第1軍の一部は4月までウラル軍と戦い、また別の一団は11月から翌1920年3月にかけて、ザカスピ州を占領してヒヴァ作戦とブハラ作戦への参加によってソビエト権力の樹立に貢献した。また、その後も第1軍はバスマチとの戦闘に従事した。

構成

脚注


2010年04月小烏丸日記 沖縄だより

実録・連合赤軍 あさま山荘への道程(みち) (2007):作品情報|シネマトゥデイ

「連合赤軍⇒赤軍派」「アウトサイダーへの憧れ」 慶喜

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